或る零戦乗りの2年間

 昭和20年8月14日午後、「明十五日正午、重大放送があるので、全隊員は本部前の号令台前に集合せよ!」との達示があった。  唯、撃ちてし止まぬ、との決意のみが頭にあり、一歩たりとも本土に驕敵を上陸させ事はできない、との信念で基より自分の身のこと等、遠い昔に忘れた様な心境で、ただ一途に何時「決号作戦」が発令になるか、その事のみに全神経を集中してきたので、イタリアが破れ、5月上旬にドイツが連合軍に降伏しても、我が国は負けるものかという思いだけであった。
 「戦いは七分三分のかねあい」と言う諺もある様に、こちらがもう追い詰められて、後三分の勝機しか残って居らず、敵が七分の優勢な戦況であっても、実情は五分五分と思ってよく、味方が苦しい時は敵も苦しいのだと、心に言い聞かせて居た。
 ソ聯が中立条約を破って、日本に宣戦布告しても、ヤルタ会談やポツダムで会談して米・英・ソ等の首脳が我が国に問題を持ちかけるている事など、まるで自分には用のない事であった。  その様な訳で、私は明日の重大放送が何であるか、知るべくも無く、また知る必要もなかった。
 八月十五日正午、号令台前に全隊員が集合した。  日はカンカンと容赦なく頭から照りつける。号令台の上にもう一段の台が設けられ、ラジオが据えられている。
 正午になった。天皇陛下の国民に対してお言葉がある様だと、ようやく知らされたが、まだ、どんなお言葉か判らない。  暫くして、ジイジイと言う雑音と共に、始めて聴く、陛下の御肉声は高くまた低く途切れ途切れに聞こえてくる。そのお言葉の中に・・・「ポツダム宣言を受諾するのやむなくに到った・・・・・」とか、「忍び難きを忍び耐え難きに耐え・・・・・」とか、「自分の身はどうなってもかまわぬ・・・・・」とか、とのお言葉が聞こえてくるにつれ、これは大変な事になった。  どうもこの際は敵の言い分を聞いてこの戦いをやめるとの、陛下御自らのお言葉である。  頭を下げて聴いていた目から何となく涙がにじんできたかと思うと、乾いた土の上にポトポトと数滴の涙が頬を伝ってこぼれた。  「悔しい涙」か、「なさけ無い気持ちの涙」か、「陛下自分の身はどうなっても等と言わずに下さいと言う気持ちの涙」か、多分、色々な複雑な気持ちが一つになって、吹き出た涙であったと思う。自分だけでなく皆目を赤くし、中には声を上げて泣く者も多く居た。
 放心した様な空気が隊内に漂う中、「ポツダム宣言」とは、どんなものか?  連合国側がこの「ポツダム宣言」を日本国が了承して呑むと言えば、ここで戦闘行為は終わりにする、呑むか?呑まぬか?、「イエス」か?「ノ-」か?と日本国政府に通告してきたので、日本国政府は大筋で、これを呑むこととし、陛下の大意を得て、この様な陛下の「お言葉」が発せられたとの経緯が次第に明らかになってきた。  然し、依然としてその内容の細部は判らない侭、十五日の夜は隊内でも指令外上層部による各方面との連絡や情報の収集が続けられた。
 一夜が明けると、何処からか艦爆が降りてきて、「我々は徹底交戦する考えだから谷田部空の諸君も立ち上がって、我々と行動を共にせよ!」と、言いながらビラを配ってまた飛び去って行った。
 自分も連合軍が突きつけた「ポツダム宣言」の内容次第では、如何に陛下のお言葉であっても、また、陛下のお言葉その物が、本物か? 作られた物か?判らない感じも一方ではあり、どう対処すべきか、その時点では判断できなかった。
 混乱の中二~三日がたつにつれ、次第に今後日本の国体がこの「ポツダム宣言」を受諾する事によりどの様な状態になるにせよ、陛下の「ポツダム宣言受諾詔書」が御自らのお言葉となり我々に示された以上は、その中身は如何なる内容にせよ、これに従うのが臣下としての道であるとの考えが一般的となり、谷田部空でも若干の異論はあったが、「詔書」を謹しんで受け、これに従うことになった。
 自分は「ポツダム宣言」を無条件に受け入れることは、無条件に日本が降伏したのではなく、連合国側の示した和睦の条件を日本が呑んで今までの戦争状態を終らせる事にしたのであって、負けたのでなく、戦争状態を終わりにしたと考えた。
 さて、それはそうとしても、一日一日が自分を全とうすることに全身全霊を打ち込んだ毎日であり、明日と言う日は考える事の出来ない毎日を過ごしてきた自分ではあるが、明日を考える事の出来る日が来た事に徐々に気が付いた。  気が付くと共に、ホッとした安堵の気持ちと共に不安もあった、其の第一は国がどうなるか、それに依って、自分も変わる筈だ、そもそも、国家とは主権と国民と国土の三つの要素から成立するものてある。その中で主権は天皇にあり、その天皇が何うなるか判らないし、国土もどうなるか判らない、唯、国民即ち大和民族だけは、如何に連合国軍としても消しさる事は出来まい。
 最悪な場合でも、あの「ユダヤ」民族の様な姿になっても生きる事はできると思った。  自分は戦闘員として、中でも零戦搭乗員としてこれまで切瑳琢磨して来て、自分でもこれでようやく世間のお役に立てる働きができる数少ない貴重な存在になってきている自覚を持ち、「ヨシ」今度こそと思っていたので、日頃の搭乗員に対する特別な食事等の待遇も割り切った気持ちで当り前のごとく、また隊外に出た時も一般の人々より、よりよい待遇、例えば汽車賃など五割引などに対して無頓着に過ごして来た自分が恥ずかしくなり、今後、親、兄弟はどうにか許してくれるとしても、一般の人々は許してくれるだろうか、と思ったりもした。
 そうこうして、四~五日は色々な話が隊内にも流れてきた。
      *近くマッカ-サ-が厚木に進駐してくるそうだ!
      *特に搭乗員は最先に処刑されそうだ!
      *門司には支那軍がやってきて、略奪を始めているそうだ!
      *また進駐軍が来たら婦女子は強姦されるので山に退避させろ!
      *皇居前で多くの人が自決した!
など 様々な話が流れてきた。 昭和20年8月22日、海軍司令部より指揮下各部隊の作戦任務を解除する命令がだされ、翌日より解隊の作業が行われた。  僅かに残った飛行機は格納庫前に並べられて、主計将校が進駐軍に渡す様にされた。  我々に、新しい軍服が一着ずつ渡された、米とウイスキ-ももらった、なお、驚いた事に退職金が渡された。
 解隊に当っての司令の訓辞が行われ、いよいよ故郷に帰る事となった。司令の話で印象に残る言葉は「皆、それぞれ今から故郷等に向かうであろうが、体を大事にして、今後は肉親、兄弟姉妹、特に婦女子の身を守る様に努めて貰いたい。」との、およそ武人の口から今までは聞いた事もない言葉を聞き感慨を新にした。
 私は予備生徒で同じ熊本出身の同郷の少尉と同行して、故郷に帰る事とした。 途中、門司が越せるか心配して、その時は中国山脈に篭城する覚悟の旅であったが、汽車の混雑と、筑後川の鉄橋を歩いて渡った外、二日三夜かけてとりあえず、彼の家まで辿り付いた。時間も遅かったし、ご両親の勧めもあり、彼の家に一泊して、翌日、鉄道貨車に乗り8月28日に生まれ故郷のわが家に辿りついた。