或る零戦乗りの2年間

 「橋の袂に街角に千人針の人の波」と、当時、歌にも歌われたこの千人針とはどんな物か、戦後半世紀も過ぎれば忘れ去られるばかりか、どんな物か最初から知らない人達が多いと思う。
 千人針は、白い晒しの木綿に普通の大きさの毛筆の柄の方に珠肉をつけ、縦に20個位横に50列位、1000個の丸い印をつけたものに、白いエプロン姿に愛国婦人会の襷を掛けた婦人の方々、また女子青年団の皆さんはもちろん、針のもてる国民学校の女生徒にいたるまで、一針一針出征する男子の武運長久を祈って赤い糸で丸い糸玉をつくるものであり、虎歳生まれの人は自分の年齢の数だけ、その他の人は一つだけ丁寧に縫いつけて載いたものを腹巻状にこしらえたものである。
 私は母から贈られた千人針の腹巻ともう一つ上海の婦人会の皆さんから戴いだ慰問袋に上海神社のお守り等と一諸に入っていた千人針の腹巻の二つを大事に持っていた。  何故、上海の婦人会から戴いたかと云うと、私は既に、上海にあった華中鉱業有限股分公司と云う会社に就職していたからである。
 工専は採鉱科で卒業後の就職は海外を希望していた。最初は満州石油を教授から勧められ、私も乗り気であった。
 噂ではノモンハン事件の国境を巡る争いは、この地域が米国のカリフォルニアの油田地帯の地質構造によく似ており、岩塩ドームが油母水成岩に突き出で、その隙間に石油が溜る地質構造をしているので、この利権の確保の為の境界紛争であったと聴いたからであった。
 結局、日本がこの戦いに失敗したのと、満州石油と云う会社が未だ政治的に喧伝されているだけで、実体が掴めないということで、教授から、代わりに上海に華中鉱業有限股分公司と云う会社があり、将来日本の地下資源の確保の面からも重要な会社だと勧めがあり、この会社に入社した。
 実際は卒業と同時に13期飛行専修予備学生として土浦海軍航空隊に入隊したため、この会社には一度も顔を出さず、籍を置いたまま休職扱いとなっており、辞令は総務部勤務のまま終戦となった。
 以上の様な関係から、この様に千人針やお守りまで送って戴いたことに感謝したものである。  上海からの千人針は、更のまま納めていて、母からの千人針の腹巻を必ず飛行機に乗る時は腹に巻いていた。
 そしてこの腹巻には色々な方から送られたお守りを一杯縫目を少し破いて入れていた。そして殆ど毎日、腹にこれを巻き締めて飛行場に出るので、汗で最後は黒ずんできたが、洗濯は出来ずそのまま終戦まで使った。
 また、何かの拍子にこの千人針の腹巻を締め忘れて飛行場に出たときなど走って、営舎に引き返し必ず締めて飛行場に出たものである。