或る零戦乗りの2年間

 私の僅かな、そして貴重な記念として残っている、昭和20年4月頃の谷田部空のスナツプ写真には、そのバツクに咲き誇った桜の花がある。
 この年の3月中旬、日本国々土、硫黄島の守備隊が死闘を繰り返しながら、善戦これ努めたが、遂に玉砕し、3月下旬には硫黄島には敵の高性能戦闘機P-51(米陸軍戦闘機で「リベンジャ-」、即ち「復讐機」と呼ばれた。速度、攻撃力では、当時の日本の陸、海軍機が到底及ばぬ能力を持った戦闘機)が日本本土の目と鼻の先の硫黄島に進出して、B-29爆撃機の護衛をして日本各地の都市や軍施設、工業施設を余す所なく、爆弾、焼夷弾で攻撃し、首都東京を始め、主な都市や軍需工場の多くが、灰塵と化しつつあった。
 一方、九州南方方面の敵機動部隊は絶大な量の艦船、航空機をもって、九州各地の航空基地を急襲する外、阪神、中国、北九州を延べ約1000機に及ぶ艦載機で攻撃して来るなど、徹底して我が軍の後方支援の封鎖を行った。
 さらに3月26日には米軍の一部が慶良間列島に上陸し、遂に、4月1日には、沖縄本島嘉手納付近に米軍本隊18万2000名の兵士が上陸を開始した。
 これに対し、沖縄防衛地上部隊の応戦は沖縄島民も含めた戦闘に広がりつつあり、陸、海空軍は4月6日以降「菊水作戦」を発動して特攻を掛け、海軍水上部隊も戦艦「大和」以下10隻の水上特攻を掛ける等、文字通りの死闘に入った時期であった。
 銃後では、もう銃後と云う言葉も適切では無く、国民の男子の準青年から古壮年までの全てが身体障害者を除き、戦闘員として、戦闘配備に付き、若青年、婦女子の多くが、軍需工場で働き、密集家屋を延焼から逃れるため、都市では家屋の間引きが行われ、学童は田舎に疎開して安全を計らせるなど、将に、日本国内全体が、只、敵兵を目の当りに見ないだけの戦場であった。
 日々の生活必需物資を軍需物資に廻して、戦備品の確保に努めるなど国民の総力を挙げた努力にも関わらず、軍用飛行機の生産はおろか、その他の機材の補給も、戦場で消耗する機材を満たすには到底及びも付かぬ有様であった。
 私は、いや私だけでは無く、軍籍にある全ての軍人は、この様な国家の現状の時に、自分は自分なりに自分を何う処すかは、各自の心の底には自然、自然に備わってきていた。  それは、「散る桜、残る桜も散る桜」 同じ散るなら、少しでも、親兄弟、親類縁者、故郷の人、日本民族の役に立つ散り方をしようと心に決めて、一日一日を大事に過ごすことであった。  沖縄では同僚、後輩が毎日の様に特攻に出ている、何時か自分もと云う気持ちが自然に花咲く桜の木をバツクにして記念の写真をとる気になった。