或る零戦乗りの2年間

 私は熊本県の農家の次男として、大正12年に生まれた。  学齢期になって、尋常高等小学校に当然の様に進み、約40名足らずの男子のみのクラスの児童の一員として六年間を過ごして後、約一里ほど離れた隣町の中学校に五年間通学した。昭和16年4月から久留米高等工業学校(後に久留米工専)へ進み、昭和18年9月卒業(半年の繰り上げ卒業)と同時に第13期海軍飛行専修予備学生の募集に応募して合格して、軍籍を得た。
 故に、幼年期は、第一次世界大戦後の満州、北支方面に於ける権益の維持、拡大を行う余り、これを阻止しようとする中国側との軋轢が高じて満州事変が勃発したり、国内では、昭和7年の五・一五事件、昭和11年の二・二六事件など、軍部勢力の台頭があり、軍国主義への道に進み出した時であった。
 少年期は上海事件から日中戦争へと大陸全土に日本軍が展開した全面戦争になり、将に戦いが泥沼化を続ける時期と重なり、青年期に入ると昭和16年12月8日、遂に、中華民国に加え、米国、英国、仏蘭等も相手とした大東亜戦争へと発展し、自らが兵士の一員となったのである。
 この様な時代背景の中、特に、少年期を過ごした中学校時代は私の人間形成に大きく影響したと思われる。この中学校は明治29年の発足で地元の中学教育の中心的存在であった。
 また、所在地は東に阿蘇の噴煙を望み、北には福岡県との県境となる筑肥山地を控へ、南には広大な田園の平野が展開し、その中央を阿蘇の伏流水が湧き出る水源を源とした川が流れ有明海に注いでいた。温泉も湧き出し、また農産物の流通基地である田園地帯の中の町であった。
 在校生も農家出身が多く、これに商家、医師、教師、公務員、宗教家など様々な職業の子弟で構成されていた。  また、校風は質実剛健を旨とし、進取、好学、敬愛の涵養育成に努める事とし、勤王の象徴として南北朝時代の地元一族の行為を賞賛し、全校生徒による神社参拝行事が毎年行われていた。
 帰校途中に軍事訓練を実施したり、上級生に会えば歩きながらでよいが、相手が遠ざかるまで挙手の礼を続け、教師には立ち止まって挙手の礼をする事が決まりであった。
 また、制服は、夏は霜降り柄で冬は黒色の詰襟で鹿の角に中の字の入った金の五つボタンで、ズボンは両サイドのポケツトは無く、手をズボンに突込むことを禁じたもので、靴は編上げの皮の長靴で統一されていた。
 勿論、学業は国語、漢文、幾何、代数、英語(読本)、英文法、英作文、物理、化学、体操、軍事教練、選択教科として剣道、柔道、なお、教頭による修身講話が学年それぞれを総合して行うなど、毎週、一日7時間ときには8時間のスケジュールで行われて、外部からは私の中学校の教育はスパルタ教育などと評された。
 殆どが上級学校に進学し、特に陸軍士官学校、海軍兵学校等の進学率は県下でも一、二を争う高さを誇っていた。
 そこで、軍神の話に戻るが、私より六才年上で、同じ村の出身で、小学校、中学校も先輩の方がおられた。海軍兵学校に進まれ、大東亜戦争が勃発して間もない頃、真珠湾攻撃の特殊潜行艇攻撃に続いて、特殊潜行艇で、豪州シドニー湾に奥深く進入して、英国軍艦を攻撃し戦死された。
 この先輩はその武勲を讃えられ、二階級特進の上、軍神として崇められ、映画化をされた程有名な方あった。
 この方を先例として、昭和19年10月下旬以降、航空機による特別攻撃隊員として、出撃して戦死された方々は、聯合艦隊布告により二階級特進が行われ、軍神として崇められる様になった。
 私が谷田部空へ転勤する機会に故郷を尋ねたのは、特別攻撃隊員として近く出撃するので、その前に別れに来たに違いないとの、憶測から、近くこの村から二番目の軍神が出るとの噂が広まってしまった。