或る零戦乗りの2年間

 昭和19年12月中旬、東北本線に上野より乗り、夜行列車は夜半を過ぎるころ、福島と山形の県境の峠にさしかかかった。車内は、さすがに冷えこんできて、南国育ちの身には堪えて先が思いやられていたが、雪国の厳しさは、実はまだ序の口であった。
 駅に降りると一面の雪であたりは真白であり、雪に埋もれた林檎畑の間の道を歩いて隊内に入ると、本部らしい建物も営舎も急造の現在で云う仮設建物で、軒先から50糎(センチ)程のツララが垂れているのには驚いた。  着任の申告をしたが、カーキ色の軍服に軍刀で赴任した我々と、紺色の軍服の士官とでは何かしっくりしない感じであった。  何の職名も無い儘、分隊長らしき上官から、飛行作業の指示があり、一面の雪に覆われた飛行場で、車輪の代わりに橇を付けた中型練習機二機を一棟しかない格納庫から引き出して、離着陸する事になった。
 雪上の初めての飛行で離陸は普段の感覚と変わらないが、着陸の時の高度の感覚が周囲が全て真白でつかめず、一度目は早めに引き起こしすぎて、やり直した。  二度目からは感覚をつかみ、数回訓練したが、雪国の天気は雲が懸かると直ぐ雪が降る状態で長くはできず、間もなく中止した。その後も悪天候でなかなか飛行作業が出来ず、その後一度位飛んだが、よい経験であった。
 天候が悪く飛行作業も儘ならぬ日が続くある日、隊全員で雪の降る中、近くの山で兎狩りをしたりした。  無寥な日が続く中、寒さに弱い私は夜は他人の倍の毛布を被ってベツドに入ったが、寒くて早く目醒め、一番に起きストーブに薪をいれて、ストーブを抱く様にして暖を取った。
 二、三日したら躯に変調を来たし、尾籠な話で恐れいるが、でる便が西洋蝋燭の様な状態になり、この儘で推移したら、ここで犬死にする羽目になるやも知れぬと思うようになった。
 二週間位経った時、やはり我々は谷田部空への転勤が本当であるとの事が判り、ようやく谷田部空に帰り、落ち着くことが出来てホッとしたものだ。
 このように軍指令部も現地部隊も、相当混乱していた事は間違いない。