或る零戦乗りの2年間

 初めて焼夷弾の洗礼を受けたのは、同僚と昭和19年12月10日頃、谷田部空から赴任先が違うと云われて、山形の神町空に向かうため、上野駅で列車を待って時間潰しに公園横を二人で歩いていたときの事である。
 夕方の19:00頃、空襲警報のサイレンが鳴り響き、数条の探照灯の光が暗闇の空に伸びて交錯する中、暫くすると高射砲の発射音と共に、「シュル・・シュル・・」と金属音を立てて発射された高射砲の弾丸の破片が落ちてくると同時に、「ザア-・・・」と云う、夕立に会い大粒の雨に襲われた時の様な音と共に頭上に赤い火の子が降り掛かってきた。  二人はそれまで立ち止まって空を見上げていたが、焼夷弾の直撃を食らったらたまらんと思い、警報と同時に防空壕めがけて避難してきた多くの人々と共に逃げ込んだ。
 空襲は20~30分で終ったが、軍服を着た身としては、些か気がとがめて早々に防空壕を出て駅舎に向かった。  当時、上野の森の地下には大きな防空壕が多く掘られている事を初めて知り驚きながら、定刻より約30~40分遅れて発車した汽車で上野を離れた。  B-29の実物との対面は、それから遥か後、昭和20年3月上旬頃、谷田部空で教官勤務をしていた時のこと、この頃になるとB-29は夜間低高度で焼夷弾爆撃を主体とした攻撃を開始していた。
 そして、帝都東京への進入コ-スは、大体、富士山目標で洋上を北上して、甲府方面より東京へ進入し爆撃の後、銚子、九十九里浜方面に退避するコ-スをとっていた。  飛行機による遥撃は主に、進入前の洋上で夜戦機で行われ、続いて陸上空では、高射砲と陸、海の夜戦機で行われ、撃墜せぬまでも相当の被害を与えたことは確かである。
 爆撃終了して引き挙げるB-29の編隊の中には必ず数機の白煙を引きながら逃走するB-29の姿を確認することが出来た。  自分を含め谷田部空では、この頃、薄暮飛行、夜間飛行の錬成訓練はしていたが、任務の主体が後に続く操縦員の補充の為の教育であった為か、遥撃発進の命令はなく、遥撃に上がることはなかった。  しかし、谷田部空はB-29の引き挙げのコ-スの近くにあったので、ある夜、炎にまみれたB-29が飛行場の西南方、約2Km位の原野に撃墜された、との情報が入った。
 私は翌朝、同僚数人と車で調査に出かけた。  現場について見ると丘の中腹の林が約1ヘクタ-ルほど火災になり、消防団と警察の人で既に消火は終わり、焼け跡にB-29の機体が頭部の一部と垂直尾翼と二連機銃の銃座が壊れ、焼け残っていた。  搭乗員については、落下傘で飛んだかその付近にはなかった。
 只、驚いたのは垂直尾翼から方向舵は吹き飛んでいたが、その大きさと五mを超す背の高さであり、モンキ-スパナ-ほか修理工具類と色々な食料缶詰がこんもりと山をなして焼けていたのをみて、その準備の良さに感心した。
 なお、B-29には前方、後方、胴体の上下、左右に防御用の二連の12・7ミリ機銃が十数丁備えられ、これが機体後尾に取付けられた遠隔照準器に攻撃してくる敵機(この場合は日本機)が把握されると、全部の機銃が一斉にその敵機に照準がむけられ、弾幕が張られるので、攻撃するにも容易ではないという話を聞いていた。  幸い尾翼部が残っていたので、探したところ、それらしい物を見つけ持ち帰り、士官室次室の食堂に飾って置いたら、3~4日すると行方不明となった。  これが、B-29と直かに、対面した出来事である。