或る零戦乗りの2年間

 昭和20年4月中旬、沖縄方面への特攻基地である鹿屋基地も相次ぐ特攻出撃に搭乗員と共に特攻を掛ける飛行機も次第に少なくなっている時、出撃間際の爆装零戦が敵のグラマンに急襲を受け6機が爆破炎上した。  この飛行機は谷田部空で編成された神風特別攻撃隊昭和隊のものであった。
 この補給のため、零戦52型の空輸の一員に選ばれ、上官の中尉を一番機として、宮崎の富高基地まで運ぶことになった。  当時は何時敵機と遭遇するやも判らぬ情勢であったが、目的が飛行機の補給であったので、機銃弾も搭載せず身軽にして出発した。  当日は関東から近畿にかけ天候が悪く視界も極めて悪い状態で、その点、敵の攻撃もかわせたが、有視界飛行をするには超低空でないと出来かねる状況であり、海岸線を這ようにして飛んだ。
 途中給油のため鈴鹿空に降り、翼を一時休め、敵の攻撃を避けるため夕刻に富高基地に着くようにと時間を見計らって鈴鹿空を離陸した。  途中目立つ都市が爆撃を受け、赤茶化て見えるのが痛々しく感ぜられた。  幸い無事に富高空上空に着いたが、驚いた事に飛行場は穴だらで着陸する場所が見あたらないほどで降りる場所を探して、上空を旋回していると、地上から爆弾の跡を補修して整地した場所を手旗で指示してきた。
 やっと一番機から整地してまだ柔らかい所に脚をとられ無い様に避けながら、全機無事に着陸した。  任務はこれで終ったが、飛行場に落とされた爆弾は時限爆弾で何時爆発するか判らず、昨夜も轟音をあげて爆発したとのことで危険この上ない状態であるとの話であった。
 鹿屋基地から、我々が空輸した飛行機を取りに来ていた者も居たようだが、帰りのダグラス輸送機の都合もあり、同僚に会えずに直ぐ引き返さざるをえなかったのは残念の極みであった。
 ダグラス輸送機は岩国基地まで、夜、岩国基地に着き翌日は陸路で谷田部空に戻った。 谷田部空の零戦も実戦に使える機数は少なくなっていて、この6機も谷田部空にとっては、虎の子の6機であった事も付記しておく。