或る零戦乗りの2年間

 谷田部空は実用機(零戦)の教育訓練の航空隊であったが、何時の頃からか中練の飛行訓練も行なわれる様になり、私はその担当もした。  その傍ら色々な仕事を命じられた。当時としては色々こなせる搭乗員も数少なくなっていて、自分で云うのもはばかられるが、私などは残り少なくなった使える搭乗員でも右翼の方になっていた。
 その色々な仕事の中に各航空隊から飛行機を貰い受けて、それを谷田部空に運ぶ仕事があった。  昭和20年5月中旬ともなると、国内の各飛行場も必ず2~3回の空襲を受けた。  その都度、格納庫では虎の子の飛行機を守る事が出来ないため、飛行場の周辺に土塁で周囲を囲んだ掩退壕を設けて、敵の爆撃や地上掃射から守る様にした。
 また、敵の目をごまかす狙いで、わざと使いものにならない壊れた飛行機や木で飛行機の形に作って、飛行場の周辺に並べて敵の関心を向けさせ、これに向かって、攻撃して来る敵を機銃で迎え撃つ戦法も取られた。  それでも、数において比べ様のない程、絶対多数の物量をもって攻撃して来る敵の空からの攻撃には、日一日と各航空隊も応戦に努めるものの、次第に被害も重なり虎の子の飛行機も一機、二機と消耗して行くのでこれの補充に躍氣であった。
 こうした状況下、自分も隊員4名と郡山空にどうやら整備の出来た零戦があるので、取りに行く様にとの命令を受け、陸行で水戸から水郡線で郡山空に向い飛行機を受け取り行った。  当日完成して居れば、当然直ちに持ち帰れるところ、郡山空でも相当に使って普段なら、廃棄処分する物を手入れして整備しているので、その日は整備が間に会わず翌日まで掛かるとのことであった。
 それではと郡山空の好意で車を飛ばして山間で川辺の温泉宿に一泊して翌日持ち帰ることとなった。これ幸いに息抜きして飛行場に帰り飛行機の出来上がるのを待ったが、なかなか、整備が出来上がらず、出来上がった飛行機から持ち帰ることになり、どうやら3機は出来上がり先に帰る事になった。
 自分が持ち帰る予定の飛行機が、どうも調子が悪く色々と整備したが、これ以上は難しいと整備員も云うので、しびれをきらし整備員と交代して、テストすると左にスイツチを入れたとき、エンジンの回転が正常より約80回転低下する程度で数回繰り返したが、それ以上悪くもならないので、この程度であれば谷田部までは大丈夫と思い、飛び上がることにした。
 念のため充分の滑走距離をとって、離陸に入ったがなかなか離陸できず、やっと飛行場の端の柵すれすれで離陸した。
 ゆっくりと高度を取り帰路に着いたが、水戸まであと僅かと云う山の上で、エンジンの調子がおかしくなって来た。  パンパンという音がして、煙を吐き出した。  ここでエンストを起こしたら山の中、不時着しても機体はバラバラ、先ず助かる見込み無し、と思いシリンダ-を冷やさぬ様にとカバーを閉めたり、スロツトル・レバーを軽く操作していると、どうやらエンジンの調子も幾らか直り、ようやく水戸の陸軍の飛行場が見える所まで来た。
 ここまで来ればエンジンが止まっても何とかなる。  一時は念仏を唱えたが、もう大丈夫とそれからは、飛べる所まで飛ぶつもりで、ここでエンジンが止まったら、あそこに不時着しようと、不時着場所を探しながらようやく谷田部に着いた。
 普段なら飛行場上空を一度通過して、指揮所の吹き流し等地上の様子を確認して着陸するのが普通だが、この時は滑り込む様にして着陸した。 着陸してエンジンを絞った所、直ぐエンジンがストツプしてしまった。整備員がスタ-タで駆けてきて、事情を聞き、早速、始動にかかり調べたところ、左の点火栓がわるく、回転数が約200回転も正常な状態から落ちていた。  そのほか、郡山空で搭乗する時から気が付いていたが、この飛行機は今まで、飛行場の端に囮機として置かれて居た形跡があり、翼の上には何箇所も破けた穴をジュラルミンの板で補修してあった。  整備の上等兵曹が「分隊士よくこんなものをもって来ましたネ!」と褒められたのか無茶した事をたしなめられたのか、判らぬ言葉をかけられた。
 また、ある日、隣の霞ヶ浦空に零戦が1機整備出来たので取って来る様にと言われたので、中練を1機引出し、後部座席にS少尉を乗せ、筆者が操縦して隣の霞ヶ浦空を久し振りに訪問した。  霞ヶ浦空は第1空廠とも隣接し広々とした飛行場で、以前634空の時、徳島空から零戦を取りに来た時も感じたが、飛行場を半分も使えば離着陸できる感じで、中練等は飛行場内で第一旋回から第四旋回を行って着陸できる広さがあった。
 私はその事を忘れて谷田部空の気持ちで端の方に降りたので、格納庫の前のエプロンまで行くのが大変で、エンジンを吹かすなどして、やっと辿り着いた。  零戦52型が整備できていたので、中練はS少尉に任せて、早速、52型に飛び乗って当時は毎日の様に敵戦闘機が頭上を飛びまわる状況のため松林の上をかすめる様な低空で虎の子を運んだものだった。