或る零戦乗りの2年間

 特別攻撃隊については、比島における昭和19年10月21日、爆装零戦にてレイテ湾東方の敵に対し、体当り攻撃を敢行された久納中尉(予学11期、大和隊)に始まり、関大尉(海兵70期、敷島隊)と続き、以後、航空機による敵艦船への攻撃の主体は、この体当りによる特別攻撃が作戦の主流となった。
 比島における201空で編成された神風特別攻撃隊の爆装零戦隊、昭和19年10月1日、新しく編成された721空は特別攻撃機「桜花」配備の特攻専門部隊、始め艦攻、艦爆、水戦、水偵、陸攻、飛行艇、操縦練習機、作業練習機等あらゆる新旧機種を動員して、各航空隊、各基地毎に、その特徴を生かして創意工夫して、時には陸軍航空部隊と協同して、レイテ島・比島海域、台湾海域、九州南方海域、南西諸島・沖縄海域、本州東方海域は、勿論、遠くは敵機動部隊の泊地のウルシ-島、マリアナ諸島、硫黄島周辺の敵に対し特攻を敢行した。
 その数、海軍だけで、所属航空隊数は42航空隊、特攻機数は1390機、戦死者の数2498名におよんだ。  その中で、谷田部空で編成された神風昭和特別攻撃隊について記することにする。
 自分が634空から谷田部空に赴任した経緯については、前に述べた通りであるが、当時の谷田部空は神ノ池空の実用機(零戦)訓練の練習航空隊が移転したばかりで、海軍兵学校73期(42期飛行学生)が約90名、14期予備学生の特習学生が約130名、1期予備生徒が数十名、乙飛18期練習生が約80名が訓練中であり、それに飛行隊長、各分隊長、分隊士、下士官が教官、教員として、訓練指導を行っていた。
 昭和20年3月1日、第11、12、13聯空(教育部隊)をもって、10航空戦隊を編成して、戦力化を計ることとなった。
 それより以前から、谷田部空でも、他の聯空と同様に特別攻撃隊の編成の準備に入っており、2月中旬頃、全搭乗員に特別攻撃隊への参加の希望が、熱望か、望か、否かの何れかを渡された紙片に書いて提出する様にとの達示と共に問われた。
 私は中練終了時迷いなく戦闘機搭乗員を希望し、願いかなって、その道を歩むことが出来た上、実施部隊では母艦搭載戦闘機隊に配属となり、一心不乱に研鑽これ努めて来たものであったが、不幸にしてその本分を果たし得ず、今、後輩の指導にその職務を尽くして居るとは云へ、願いは、敵戦闘機や敵攻撃機と空戦し見事これを撃墜することや、敵地上軍や施設に対して、機銃掃射によりこれを撃滅、また破壊することであり、艦爆、艦攻の様に爆弾を抱いての攻撃の訓練は今までやっても居らず特別攻撃隊への参加には戸惑いがあった。 それでも私は当然「熱望」と書いて提出した。戦局は、そんなに正攻法を唱える程の余裕は無いことも事実であったからだ。
 後で特別攻撃隊へ希望の内容が、噂として流れて来たが、それに依ると「否」と書いた者は一人も居なく、全員が「熱望」で中には「超熱望」と書いた者も居り、加えて血書で表した者も居たと聴き、私は些か気恥ずかしい思いに駆られた。
 数日後、全搭乗員が中央指揮所の前に整列して、特別攻撃隊への参加者の氏名が呼ばれ、呼ばれた者ば列の前に出た。指名されて前に出た者達の顔が青く引き締まる様な感じであった。
 こうして、特別攻撃隊の編成が終わり、後に隊員の発案で昭和隊と命名された。  特別攻撃隊に選ばれた人達の内訳は、13期では、昭和19年10月、神ノ池空で実用機教程を終了しそのまま、神ノ池空に配属された者、同じく同隊で同時に実用機教程を終了して、他の隊に配属になったが再び谷田部空に転属になった者、同じく実用機の訓練教育航空隊であった元山空よりの転属者の中から計13名(内1名の他は全部を除き、基礎教程四ケ月組)で、13期以外は2月末飛行学生卒業予定の海兵73期の3名、未だ実用機教程中の14期予備学生から28名、同じく実用機教程中の乙飛18期より10名(この14期予備学生と乙飛の特別攻撃隊被命者は4月1日、実用機教程を繰上げて卒業となる。)の総勢54名であった。
 私は特別攻撃隊への希望の意志が薄弱と見なされたのか、または、他の同隊の人達と同じく、実施部隊に半年以上経験した事が、選考の基準の一部にあったのか、特別攻撃隊から外され、日高大尉(谷田部空飛行隊長)率いる制空隊、約35名の一員となった。
 編成された特別攻撃隊は、分隊長森田大尉(操練12期)の指揮のもと3月に入るや直ちに突入訓練を開始したが、戦局の急迫で訓練予定を半分の約一ケ月で切上げて、天一号作戦(連合軍の沖縄侵攻に備えた作戦)発令に伴う、「菊水作戦」(特攻機による攻撃作戦)に参加することになる。
 昭和20年4月7日、10:00、谷田部空に特攻隊出動命令が来た。  早速、12:00、一個小隊四機編隊の五個小隊、計20名が取り合えず第一陣として、前線出撃基地の鹿屋基地に向けて出発すべく、準備を整え残りの隊員と共に、中央指揮所前のエプロンに整列した。
 司令の送別の言葉の後、食卓に白い布を覆ぶせた急作りの宴台を囲み、恩賜の酒で別れの杯を交わし、14:00、列線に並べられた愛機に、飛び乗り、白いマフラをなびかせて、片手を上げて別れを告げながら飛び去った。  私は特攻隊員ではないので、離れて、この光景を眺めるばかりであった。 そして、航空隊の全員と共に、編隊が見えなくなるまで、帽子を振って見送った。
 指揮所の二階のベランダでは、飛行長の下川中佐も何時までも帽子を振って身送って居られた。
 鹿屋基地からの出撃の模様や、第二陣以降の動向などは、私と訓練は勿論、外出も一諸に水戸市等へ出かけて、息抜きした忘れえぬ友の一人の貞方弘義君(操土(7))が第13期海軍飛行予備学生会会誌に「谷田部空特攻小史」として記載している。
 それに依ると、昭和20年4月12日、10航艦司令長官、前田稔海軍中將による「神風昭和特別攻撃隊ト命名ス」との命名式に続き、4月14日の菊水二号作戦には第一昭和隊が21型零戦に#25を爆装して14日に、4月16日~17日の菊水三号作戦には第二、第三、第四昭和隊が21型零戦に#25を爆装して16日に、4月21日~29日の菊水四号作戦では第五昭和隊が零練戦に#25を爆装して29日に、5月11日~14日の菊水六号作戦では第六、第七昭和隊が神雷部隊721空の作戦下に入り、52型零戦に#50を爆装して11日に特攻を敢行している。 4月16日の第四昭和隊は、12:20、鹿屋基地から将に発進せんとしていた時、敵グラマンの急襲を受け、零戦六機が被弾して爆破炎上した為、出撃中止となった。  谷田部空より宮崎の富高基地に空輸された零戦を、この時出撃出来なかった者達が、富高基地に受取りに行き、5月12日に改めて鹿屋基地に進出した。
 この時点で再度、721空の鹿屋基地に所在する全爆戦隊について、従来の隊名に関係なく再編成が行われ、12個小隊に編成され、谷田部空出身の13期の北原篤幸君(法大専)が11分隊、同じく貞方弘義君(宇部工専)が12分隊長に任命された。  5月14日の九州南方の敵機動部隊の攻撃には、この中の八分隊までが出撃し散華した。
 この為、この時点で鹿屋基地の爆戦隊は僅か第9、10、11、12分隊を残すのみとなり、この攻撃を境に鹿屋基地からの特攻は見送りの形となり中断した。  以後菊水七号作戦が5月24日に、菊水八号作戦が5月28日に、菊水九号作戦が6月3日以降6月10日までに行われ、陸軍部隊、海軍の水上機、艦爆、白菊隊等多くの部隊、機種による特攻が沖縄周辺海上で行われた。
 最後に菊水十号作戦が、6月21日~22日に発動され、6月22日、元昭和隊員の二名が第一神雷爆戦隊として参加したのを最後にして、6月23日沖縄地上戦が牛島満中將の自決で終了すると共に、昭和特別攻撃隊が奮戦した菊水作戦も終了した。
 今、振り返って、私は神風昭和特別攻撃隊で散華した37名の戦友(同期8名、教え子共言える後輩予学14期の20名、乙飛の8名、海兵73期の1名)及び基地や途中、不時着したりして戦死した数人の戦友に対し、冥福を祈る。零戦の中で最も古い型の21型、特に第五昭和隊では零式練習機を駆って攻撃された心意気には只々、頭の下がるばかりである。
 付記すると、私は谷田部空から富高基地に零戦52型を持って行ったメンバーの一員であったが、この事は後で述べることとする。