或る零戦乗りの2年間

 昭和19年8月上旬から10月初め頃まで岩国で訓練して後、徳島空で引き続き訓練に継ぐ訓練を行った。
 徳島空では、岩国空で332空が基地航空隊として居座つていたのと同じ様に、偵察員教育を目的とした偵察機上練習機「白菊」が陣取つていた。  ここでの訓練は、いよいよ母艦に移る仕上げの訓練であり、我々にもその自信が少しずつ付いて来ていた。 定着も安定してきたし、その他、曳的(攻撃目標)を目掛けた射撃訓練も行つたり、用務で岩国空との往復飛行なども命ぜられたりした。
 そして、昭和19年10月下旬、いよいよ実際に母艦から離着艦をする前段階として、先輩搭乗員の実技を見学する為、戦闘163、戦闘165の初めて母艦に乗艦する士官、下士官とともに、大発(艦から上陸用に使われていた比較的大型の発動機船)に乗船して、徳島沖に停泊している空母「龍鳳」に乗艦するため向かった。さすがに小型とはいえ空母は大きく、接艦した大発から「龍鳳」を見上げると、飛行甲板は17、8mの高さにあり、あれから海中に飛び込むには相当な勇気がいるな、などとつまらぬ事を想いながら乗艦した。その日は艦内に宿泊し、翌日見学することになる。
 艦では艦長が一番偉く、艦の行動はすべて艦長の指揮命令の下にあり、我々はその指示に従い、甲板下の通路の脇で折り畳み式のベツドの上で、軍装の上衣を脱いだ状態のまま寝た。仰向きになると手の届く所に大きなパイプが、一団になつて数本通つていて、とても圧迫感を覚えた一夜であつた。
 なる程、「龍鳳」にしてこの様な状態だから、建造途中の商船などを設計変えして特設空母にしたものなら更に無理もあるだろし、航空母艦自体が、機関室、燃料庫、生活用物資倉庫等の他、大部分が飛行機格納庫で占められていて、対空用の砲や機銃は飛行甲板の周りに張り出して、設けられていてる位だから、見学者の寝る場所など廊下の隅になるのは当然だと頷けた。
 翌日、零戦3機による離着艦の模様を見学して帰隊した。