或る零戦乗りの2年間

 筑波空戦闘機特修で第五分隊から私を含めた四名と、第二分隊と元山空で戦闘機特修した同期の総員12名が、空母要員として、松山海軍航空隊にいた第三艦隊の一航戦への赴任を命ぜられたのであった。
 実施部隊に赴任するにあたり、一日の休暇が与えられた。仲間の殆んどは関東から中部地方の出身であったため、実家で一夜を過ごすことが出来た様だが、私は実家が九州で帰る余裕が無かった。名古屋市に実家がある友の家に一泊させて頂き、大変な歓待をしてもらい、感謝しながら途中で仲間と落ち合い松山へ渡つた。
 松山飛行場は松山市の西の瀬戸内海に面した海岸にあり、松山城も遠く望めた。 着任してまず強く印象に残っていることは、学生時代との待遇の違いであった。第二種軍装(夏の正装)で短剣をつり、片手に鮫皮を貼った軍刀と身回りの物だけ衣袋に入れ、全く着のみ着のままで着任したが、士官次室に案内され、昼食、夕食といえばナイフ、フォ-クの洋食であり、身の回りの世話をしてくれる水兵(従兵)までが付いた。
 しかし、松山空の一航戦の601空は凄まじい雰囲気であった。隊内の廊下ですれ違う上飛曹の首に巻いたマフラの端には今まで参戦して敵機を撃墜した記録や艦爆、艦攻を護衛して、敵艦を撃沈した記録が書かれてあり、帝國海軍の機動部隊の猛者の集まりであったと言える。
 また、6月19日のマリアナ沖海空戦の余韻が生々しく残り、将に、研ぎすまされた名刀を今振り下ろす様な緊張した空気に包まれていた。
(この戦いは、我が方「空母9、戦艦5、巡洋艦13、駆逐艦28、空母機439機、基地航空機150機」で米側「空母15、戦艦7、巡洋艦21、駆逐艦69、航空機902機」が参戦しての大海戦で我が方が「正式空母2、特設空母1」のほか航空兵力の大半を失い、敗北した戦いであつた。)
 自分では、筑波空で相当厳しい訓練を積んできて、一人前の零戦乗りのつもりでいたが、此処ではそれが通用するものでない事が飛行場に出た瞬間に判って、身震いすると同時に、一層の研鑽に励もうと心に決めた。