或る零戦乗りの2年間

 当時のわが国海軍の実戦航空部隊の編成は、基地航空部隊と空母航空部隊に大別されていた。
 昭和18年に入って、南太平洋の戦況は厳しくなり、航空消耗戦の様相を呈してきた。多数の搭乗員を失い、補給も間に合わず、戦力は急速に低下の一途をたどった。基地航空部隊の同方面の戦略の立て直しと次期作戦に対応した編成の改訂が昭和18年4月1日に実施された。
 この改訂は基地航空部隊と空母航空部隊を含めた大々的なものであつたが、この時期以降、特に基地航空部隊の新設、解隊、配転等の改変は、異常ともいえるほど頻繁に行われた。
 そして、我々が昭和19年7月26日に戦闘機特修教程を卒業し、いよいよ実戦部隊に配属された当時の編成は基地機動航空部隊(第一航空艦隊)と空母航空部隊(第一機動艦隊)であった。第一機動艦隊は南洋諸島に展開していた航空基地が壊滅的被害を受けるに及び、昭和19年3月1日空母を主幹として編成されていたものである。
 昭和17年下旬より、我が軍が展開してきた中部太平洋から南部太平洋に点在する島しょの最前線基地に対し、連合国軍(米機動部隊、米攻略部隊)の反攻が激しくなり、我が軍の善戦も及ばず、昭和19年6月11日にはマリアナ諸島まで米機動部隊の来襲があり、「あ」号作戦が発動された。
 昭和19年6月19日のマリアナ沖海空戦において、基地航空も壊滅的な打撃を受けるに至り、第一機動艦隊も全く悲惨と云う外は無い程の結末となっていた。そこで、基地航空部隊も第一機動艦隊も次期作戦に備えて再編再建が急務となり、配属されたのは再編後の第一機動艦隊である。
実戦航空部隊の編成