或る零戦乗りの2年間

 昭和20年4月1日米軍の沖縄本島への上陸以降、6月23日沖縄日本軍の玉砕までの間、沖縄及びその周辺の敵艦船に対して特別攻撃を行った零戦の数をある記録で調べると、総数346機(内訳21型186機、52型137機、練戦23機)となり、一日平均六乃至五機がこの期間に突入したことになる。  尚、6月後半から7月にかけての、B-29、及び敵艦載機による関東方面、全国主要都市、生産基地に対する爆撃は激しく、その大半が焼土と化し、生産活動は停滞し、大挙してくる敵機に対する遥撃も功を奏せず、国力、軍事力も低下の一途を辿るばかりであった。
 零戦の特攻による消耗だけを見ても、その機材と搭乗員の損失は大きく、この侭で進むと敵の本土上陸作戦に対する防衛作戦(決号作戦)を実施するための航空兵力の維持は不可能となることは明白との判断に立った軍中枢部は、飛行機と搭乗員を温存することとした。
 谷田部空でも使える飛行機は飛行場より、2~300m離れた雑木林に誘導し、木の枝等で覆って隠し、一日に二回位、整備員が試運転を目立たぬ様に実施する様にし、搭乗員も一部中練による未熟な予備生徒や練習生の訓練を様子を見ながら実施する程度となった。  我々も訓練もまばらになり、日曜日などの外出も殆ど行わず、部屋で寝ころんで、海軍で発行していた雑誌を読んで過ごすぐらいで、所在無く暮らすことが多くなった。
 特に8月6日広島に原爆(当時は特殊爆弾と呼ばれていた。)が落とされてからは、搭乗員は飛行場から退避する様にとの命令が出され、空襲警報が発令されると全員トラツクに乗って離れた森の中に避難させられ、解除と共に隊に帰ったこともあった。  これも、敵の上陸の時に洋上にせまる敵上陸部隊に必死の攻撃を加える為の最後の数少ない航空兵力を維持する為の苦肉の策であった。