或る零戦乗りの2年間

 私は昭和19年12月初旬に母艦航空隊の4航戦(634空)の残留部隊から、俗に云う捨子の様な状態で盥回しにされて、谷田部空にて昭和19年の暮は過ごした。
 この時期は前記のとおり、あちらの航空隊をこちらの航空隊に移したり、こちらの航空隊をあちらの航空隊に移すなど、編成替えが頻繁に行われ、谷田部空の飛行隊(陸上練習機)も神町空に移され、神ノ池空の戦闘機隊が谷田部空に引越してきたところであり、周囲は皆初顔ばかりで誰がどんな経歴の人か、戸惑う事が多かった。
 なお続々と各地の航空隊から海兵出身、予備学生出身、繰練出身、甲飛出身、乙飛出身、特乙出身、丙飛出身のベテランから若輩まで零戦搭乗員が集まって来たので、自分が着任した頃にくらべて翌年の昭和20年2月頃は随分にぎやかになった。
 私は岩国を出る時も、谷田部に着任した時も辞令の様なものは紙に書いたものはもちろん口頭以外では一切受けていなかった、その様な訳で谷田部空では教官と呼ばれた経験は無く分隊士と呼ばれていたと記憶している。
 然し、教官としての後部座席の同乗飛行は、今まで何処かの航空隊で中練教程を終え、零戦実用機の訓練を少し始めたばかりの14期予備学生の実技の指導や、1期予備生徒の中練の実技の指導を随分やり、時には訓練生が次々に交代で乗って来るので、こちらは飛行機から降りて用をたす暇も無いくらい忙しい日々を過ごしていた。 このような記憶から矢張り教官であったことも間違いない。
 昭和20年3月中旬いよいよ特攻隊の希望者の募集の為の書面による届出が搭乗員全員に伝達され、全員が熱望または超熱望中と書いて提出し、なかには血書で届けた者も居った様である。
 その後、日ならずして特攻隊員の選出がなされたが、自分も当然熱望と書いて提出したが選ばれず、日高飛行隊長を中心として編成された制空隊の一員とされ、毎日の錬成訓練に明け暮れることになった。
 昭和20年5月5日谷田部空、東京空、元山空、百里原空、松島空、第二郡山空が第10航艦に編入されてからは、飛行作業に専念する傍ら隊務と云うか当直勤務に付く事もあった。  自分ら士官次室士官(ガンルーム士官)は副当直士官で、当直士官は士官室士官(妻帯者、年輩者で上位の人達が集まって、団らん、食事等をする部屋に所属する士官をこの様に呼んだ)が勤めるので、実質走り回るのは副当直であった。
 当直勤務の日は朝の軍艦旗掲揚、衛兵の交代、来訪者の応対、転勤者の送別の指揮、上陸(外出)者への訓示、情報(特に侵入機等の情報)の把握、軍艦旗降下、巡検、消灯、総員起こし、等など寝ずの番である。
 ある日の当直勤務の時のこと、真夜中の午前2時頃に緊急連絡が入った。
「敵偵察機らしきもの銚子沖より侵入の模様」
 本部の玄関の当直室と隊門の衛兵詰所以外は灯火管制で真暗である。  当直士官も司令もベッドの中である。この程度で眠っておられる司令を起して報告するのも気の毒と思いながら、なるべく板張りの階段での靴音を立てない様にして、二階の司令室の前まで近づくが、シ-ンとした営内には矢張りコツコツと靴音が響く。
 音を気にしながら司令室のドアのまえで、聞こえないと悪いので周囲を気にしながらも大声で ・・・ 「副直士官、情報報告します。 〇二:〇〇 敵偵察機らしきもの銚子沖より侵入の模様であるとの連絡がありました。」・・・ と報告すると靴音で判っていたのか ・・・ 「判った、 ご苦労」・・・ とすぐ返事が返ってきた。
 また、一時間もすると、「B-29らしき編隊、数機、相模湾より東京方面に侵入しつつある模様」との連絡あり、また、先の要領で司令に報告する、今度は司令もやや緊張した声で了解の返事があった。 ところが、一〇分も経たない内に ・・・「ただ今のは、誤認であります」との連絡があり、また、司令に報告する。
 報告する方もバツが悪いが、司令もこれでは、たまったものでは無い、良く辛抱されるものだと敬服した。  この様な当直勤務は操縦一途に勤務してきた者にとっては苦手であり、翌日の飛行作業は出来るものではなかった。
 戦後になって初めて知ったのであるが、三重海軍航空隊では、入隊した13期予備学生の中で体の都合などで機上勤務に適しない者から「飛行要務士」と云う名称で、飛行要務、庶務、従来操縦飛行士が行っていた勤務を専門に行う者を養成する部署が初めて設けられたとのことである。
 これを設けた中佐や補佐官の少佐、分隊長の慧眼には感服せざるを得ないが、練習航空隊の谷田部空にはその恩恵が残念ながら届いていなかった。