或る零戦乗りの2年間

 徳島空に戻り、連日、何時になったら、母艦を使つた訓練に臨めるかと思いながら、さらに訓練を続けていたところ、昭和19年10月半ば過ぎと記憶するが、霞ヶ浦の一空廠に、新造の零戦52型が五機整備されたので、試飛行を兼ねて一機取りに行くように指示された。私は準備された「白菊」に頼んで、下士官3名と一緒に大阪の伊丹の飛行場まで送ってもらい、大阪から夜行列車で陸行し、翌日一空廠に着いた。
 微調整のある飛行機があつたので二日滞在したと思うが、最終整備が済むのを待って、先乗りしていた飛曹長が3機編隊、私が2機編隊で、昼前に霞空を離陸して、徳島に向かった。 私にとっては、初めての長距離飛行で緊張したが、当日は日本晴れで、富士山を右に見て、日本列島に沿って飛ぶ気持ちは鼻歌が出る気分で、空廠からの差し入れの「巻き寿司」を頬張つたりしながら、いい気になって飛んでいると、少し気が緩んでしまつたせいで、列機も遅れてしまった。
 先を飛んで誘導してくれる飛曹長の編隊から随分と離れてしまい、後で小言を貰うのでは無いかと思いつつ飛んでいると、やがて鈴鹿を越えるところまで来たので、再度心を引き締め、飛曹長の編隊にピタリと付いて徳島上空に入り、普段の訓練どおり無事着陸することができた。
 しかし、無事に飛行機を運んだまではよかったが、驚いたことに、帰ってみると本隊が居なくなっていた。
 基地部隊として比島のバンバンに急速整備して出ていったとの事で残っているのは、同期2人の他、飛行機を取りに行って帰ってきた我々と、病気入院中の上官が残っていただけで、他は軍医や整備員の一部位となってしまつた。
 この時こそが、「捷一号」作戦が発令されて、比島レイテ沖海空戦に4航戦が参戦して、熾烈な戦いをして、残念ながら、大打撃を受け、実質的に、我々が所属していた航空母艦部隊が消滅の途を辿る羽目となった将にその分かれ目であつた。
 その後、我々の処に入る戦況も、「艦爆隊は一機残らず全滅した。」とか、「戦闘機隊も相当にやられて、飛行機も足らなくなっている」とかの情報ばかりで、「それでは、我々が持ってきた5機を持って行く」と云えば、「こちらから取りに行く」との返事で、当方としたら不満の儘居たら、やがて、誰かが来て持って行ってしまった。比島まで届いたかは、はなはだ疑問である。
 また、比島の戦線から寸時帰られた整備分隊長の大尉の方もまるで別人の様に髭ぼうぼうで、戦地の様子を話されたが、その話からも熾烈極まる戦いであり、また、壮烈で惨憺たる結果であつたことが分かり、悔しさで唇を噛んだ。
 私は母艦からの離着艦を目標に猛訓練を行って、実際に実施に入る前の「龍鳳」での実技の見学までは行ったが、無念にも、昭和19年10月24日、25日のレイテ沖海空戦の結果、同年11月15日には第一機動部隊は解散し、我が国から航空母艦部隊は消滅したので、母艦からの離着艦は夢となつた。
 10月下旬には、第一神風特別攻撃隊、続いて第二神風特別攻撃隊、また11月1日には、我が戦闘163の木下飛長、同月12日には海兵71期の大尉が第三神風特別攻撃隊(梅花隊)として出撃されている。
 それでは残った我々は如何にして過ごして居たか、と言えば、残っていて使える飛行機は零戦21型1機と「ユングマン」3機だけであった。ユングマンとはその言葉より判る様にドイツ製の超小型機で縦型四気筒の双翼で二人乗りで、起動するにもスイッチを入れてプロペラを手で回して起動し、二枚翼の下翼は地上から1.5m位で翼端を持って揺すると、機体全体がフラフラ揺れる様な、全く凧の様な飛行機であった。当時有名な話では、イタリアのムッソリーニが幽閉されたとき、救出するのに、ドイツのヒットラーがこれを使って救出したと云われる飛行機である。
 我々は空中感覚が鈍らぬ様に、これを使つて、毎日、徳島上空から鳴門海峡の上を飛び、時には、編隊で鳴門の渦すれすれに突入したり、小学校を空から訪問して手を振る子供達に応えて、国旗掲揚用のポールすれすれに飛んだりしていた。 偉い人がいなくなつた気楽さもあり、また、飛ぶのが楽しい時期でもあり、羽をのばしていたが、昭和19年11月中旬、我々は本部から忘れられてしまったのではないかと思っていたところ、再び岩国空に帰ることになり、しばらくブラブラしていると、残存船舶を整備して「潮部隊」なるものを編成するので、大分空に集合せよとの命令がきた。 同期の我々三名は尾道から海路にて大分空に到着した。
 着いて飛行時計等の最小必需品を受けていると、もう搭乗員が集まり過ぎて、貴様らは帰れと指示があり、一泊して、また岩国に帰った。
 また岩国で待機することになった数日後に今度は、谷田部空に行く様にとの命令があり昭和19年11月中旬、岩国空を後にした。