或る零戦乗りの2年間


 私を含めた同期の三名は松山空で一回か二回の離着陸訓練を行ったただけで、日ならずして 昭和19年8月上旬、岩国飛行場で訓練中の4航戦の戦闘163、戦闘165に転勤になり、この岩国で本格的な訓練に入った。定着訓練を主体に編隊による高度な空中動作等、空母搭載零戦の搭乗員としての訓練を行った。
 ここ岩国空には、332空が基地としていたほか、江田島の兵学校の分校もあった。我々は、航空母艦が本来の基地であるので、その母艦を基地として行動するのが本来であるべきだが、この頃は、航空隊は空母専属ではなく、出撃前に空母に乗り組むと云う空地分離方式が採られていたため、出撃までは何処かの基地を使って訓練を行う事になっていた。4航戦はこの岩国空でその訓練を当時行っていたのである。
 私達は実用機訓練を終えたばかりで、母艦に乗り込んで行動する技術は無く、兎にも角にも、母艦から離発着が出来る様にならねば話にならないので、毎日がその訓練を主体にしたスケジュールで明け暮れた。
 それでは定着訓練とはどんな訓練か、ここで述べておく。
 当日の風向きに平行になる様に飛行場の訓練指揮所前の着陸地点に幅30m位で、着陸方向に約40m位の範囲を示す白い布(幅約60cm、長さ1.5m)8枚を片側4枚づつ10m間隔に並べて、母艦の飛行甲板を想定した範囲を設定する。
また、飛行機は風に向かって離着陸するので、敷設した左側の2枚目の布の横に、定着指示板(これは飛行機に着陸時の進入降下角度を指示する物で、陸上競技のハードル競争のハードルの上部の板を少し幅広くして白くペイントしたものと、車止めの三角板を大きくして横に長くして表面を赤くペイントしたものとの二個の木造物からなっている)定着指示板は当日の風速により、前方に設置したハードルの様なものと、後方に置く三角板の距離を加減して、着陸に入る進入角度を指示するものである。
 これで、訓練準備は出来上がるのであるが、この場所に正確に着地するのは、相当難しいものである。
 その着陸のやり方は次のとおりである。
(1)風に向かって離陸すべく、出発点に向かったら離陸態勢に入るが。
(2)徐々にエンジンを吹かし一杯に吹かしながら引きつけていた操縦かんを
   自然に中央の位置に戻すと、飛行機は尾翼が浮き地面に水平になりスピードが上がる。
(3)離陸スピードに達したら、操縦かんをグイと引けば飛行機は地面を蹴つて浮き上がる。
   浮き上がつたらその姿勢約一五度位の上昇姿勢ですぐ操縦席の右下のレバーを引いて
   前車輪を翼下に収めるとスピードが更にグンと上がり、すぐに高度170m位に達する。
(4)そのまま上昇姿勢で、右旋回を90度して高度200mに達すれば水平飛行に入り、
   操縦者の目線と機の右翼端と定着点とが一直線位になる位置にきたら、再度90度
   右旋回して、200mの高度を保ちながら、定着点に平行に飛ぶ。
(5)ほぼ飛行場の端を過ぎたら、また、90度右旋回し、着地の準備に入る。離陸後上げた
   前脚を出すため、操縦席右下の上げていたレバーを下げ、前脚が完全に出てロック
   されたかの表示ランプと両翼に出る脚と連動して出入りする棒を見て確認する。
(6)また浮力を付ける為にフラップを下げる。この様にしながら、定着点と機の位置の距離
   を見ながら、徐々にエンジンを加減してまた90度右旋回しつつ、定着点の中心線と機
   の中心線とを合わせる操作をしながら、高度をさげていく。
(7)風防を開け、座席を一杯に上げて座った目の位置と定着指示板の赤と白が一直線になる
   様に保ちながら、なお飛行機の姿勢は地上に停止している姿勢と水平飛行の時の中間の
   姿勢で機体を静かに沈ませる様にしながら、定着点の一番手前の白い布を過ぎると同時
   に、エンジンを一杯に絞り、尾輪と前輪が同時に接地する、いわゆる、三点着陸をする。
 この訓練の繰り返しが定着訓練である。
 岩国空では、この定着訓練の他は、編隊による高度な空中の諸動作の訓練に終始した。
 これ以外の記憶では、台風がきて、飛行場の海辺の一部が高潮で浸水したり、格納庫の外に置いた飛行機が転覆したりしたので、夜中にこの被害対策にびしょ濡れで土嚢を積んだりしたことを覚えている。
 また、飛行場の海に面した海岸は石積の護岸であり、大きな牡蠣が一杯ついていたので、黒い営内帽の年輩の応召兵の人達と一緒に、「チンケース」(これは一斗入りの油缶の使用済みものの蓋を切り取って太い番線で取り手を着けバケツの代わりに使っていたものある。なぜ、この名称が付いたかは、たぶん亜鉛即ちZnからきたと想像する。)に一杯獲つてきて、格納庫の裏で焼いて食べたことや、錦帯橋の側の「梅月」、市街地の中心近くの「三原屋旅館」で静養したこと、一寸と足を伸ばして宮島の厳島神社の裏手の「亀荘旅館」に一泊したことや、岩国駅の駅弁で、米の代わりに饂飩を刻ざんで代用食とし、それに沢山の松茸を混ぜた松茸弁当を食べたことを記憶している。
 尚、人間関係では、予学出身と海兵出身とは仲が悪いと言われていたが、岩国では同じ母艦乗りの搭乗員としての連帯感からか、筑波空からきた三人と元山空からきた同期生の四人は言うに及ばず、海兵72期の方々や、ベテランの飛曹長など、隊務ばかりか、娑婆の話や個人的な話も気楽に話せる雰囲気であり、私も軍隊の階級など無関係にこの人達の経験談や操縦面の知識を頭から吸収すると共に、躯体で覚えるべく訓練に次ぐ訓練に励んだ岩国空の生活であつた。